「トキワ荘」の黎明期

四畳半からすべてが始まる

手塚治虫という漫画家は、もともとは宝塚の実家を仕事場にして漫画を描いていたのですが、新人作家から売れっ子の漫画家になる過程に従って仕事量も増え、東京に移住することになりました。

そのときに、手塚治虫が仕事場として移住したのが「トキワ荘」の四畳半の一室でした。

「トキワ荘」のすべての歴史は、この手塚治虫が住むことになった四畳半の部屋から始まります。

手塚治虫が住んだ四畳半の部屋は、のちの手塚治虫の鬼子母神への引っ越しにともなって、藤子不二雄が引き継ぐことになりましたから、やはり、重要な部屋であると言わざるをえません。

また、手塚治虫の部屋の向かい側に住んでいた「野球漫画」の始祖的な漫画家「寺田ヒロオ」は、「トキワ荘」の歴史を語るうえで絶対に欠かすことができない最重要人物です。

手塚治虫が、上京してきた藤子不二雄に寺田ヒロオを紹介して出会わせ、寺田ヒロオが藤子不二雄を一晩泊めるという出来事がもしなかったなら、現在の漫画文化はまったく違うものになっていたか、あるいは、存在していなかったかもしれません。

トキワ荘時代の手塚治虫

トキワ荘時代の手塚治虫のエピソードは、トキワ荘以降の手塚治虫の超人的なエピソードに比べると、あまり数多く残されているとは言えません。

それが何故かといいますと、やはり、「トキワ荘」の正史ともいえる歴史や資料の多くが、藤子不二雄の『まんが道』をベースにしたものだからではないかと思います。

前述したように、手塚治虫の部屋は、藤子不二雄に明け渡されることになるのですから、『まんが道』で描かれる「トキワ荘」の歴史というのは、「手塚治虫が引っ越したあと」の「トキワ荘」の歴史になるわけです。

それでも、手塚治虫は思い出したように「トキワ荘」に遊びにきたりもしますし、トキワ荘の漫画家たちが憧れの手塚治虫の鬼子母神の家に招かれるエピソードなども「トキワ荘」のエピソードとして捉えて良いのではないかと思います。

手塚治虫といえば、締め切り直前になると編集者から身を隠すというエピソードなどが中心になります。

ちょうど、藤子不二雄が手塚治虫の部屋を訪ねているときに担当の編集者がきて、三人で息を潜めて居留守を決めこもうとする場面などは、黎明期の微笑ましいエピソードの一つと言えるでしょう

手塚治虫の影響力と求心力

当時の漫画少年にとって、手塚治虫が与えた革命的な影響は凄まじいものがあります。

「トキワ荘」という場所が、「漫画の歴史」のなかで大きな流れを持つに至ったのは、やはり、手塚治虫という天才漫画家が、漫画少年たちに与えた影響力と求心力によるものがあまりにも大きいと言えるでしょう。

すべては手塚治虫から始まり、手塚治虫を目指した少年たちが続々と「トキワ荘」に集まり、そして、漫画少年たちは、のちに憧れの手塚治虫をも脅かすほどの作品を発表していくことになるのです。