寺田ヒロオという名前を聞いて真っ先に『背番号0』という代表作のタイトルを出す人はあまり多くはありませんし、『背番号0』を実際に読んだことがある人、となると、その数はさらに減ってしまうのではないかと思います。
寺田ヒロオは、「野球漫画」というジャンルにおいて非常に重要な、始祖的な立ち位置にいる漫画家でもあるのですが、やはり、「トキワ荘」という場所における「寺田ヒロオ(テラさん)」として記憶されている存在であるといえます。
藤子不二雄の『まんが道』を読んでいると、この漫画の主人公は「テラさん」なのではないか、と思ってしまうほど、寺田ヒロオが「トキワ荘」という場所に住んでいた功績は大きいのです。
寺田ヒロオは、トキワ荘に集まった若い漫画家集団のリーダー的な存在として振る舞う一方、「劇画」の流行にともなって、大人向けになり、衰退していく「少年漫画」という夢を最後まで信じ、子供のために漫画を描き続けて敗北した悲壮なヒーローでもあります。
寺田ヒロオは「トキワ荘」の最重要人物であると同時に、「少年漫画」が隆盛を極めていた時代の最後の徒花のような存在でもありました。
藤子不二雄が原稿を落としまくり、あらゆる出版社から総スカンを食らって漫画家をやめようと思っていたときに、藤子不二雄に「漫画を描くのをやめるな」と説得するような檄文の手紙を書いたのは寺田ヒロオです。
あのとき、寺田ヒロオが檄文によって藤子不二雄を漫画家として再起させることがなかったら、『ドラえもん』はこの世に誕生することはなかったでしょう。
また、まったく原稿の依頼がなく、いよいよ漫画家の夢を諦めようとしていた赤塚不二夫に、漫画家を諦めないでほしい、という思いを込めて気前よくお金をあげて支援した話なども特筆すべきエピソードであると思います。
寺田ヒロオに励まされて数ヶ月のうちに、赤塚不二夫は少女漫画の道から逃れ、ギャグ漫画家としての才能を開花させ、チャンスを掴み、「トキワ荘」屈指の売れっ子になっていきます。
赤塚不二夫に対する寺田ヒロオの援助がなければ、現代の女の子たちは『おそ松』を知ることができませんでしたし、赤塚不二夫によって才能を見出されたタモリも、芸能界に現れないまま面白い素人として消えていく、という恐ろしい世界になっていたことでしょう。
テラさんは、「トキワ荘」の住人であることで「世界」を変えてしまったのです。
『漫画少年』という「子供のためのまんが雑誌」を愛した寺田ヒロオは、「少年漫画」の衰退と歩調を合わせるように後退し、漫画文化全般に背を向けるように見切りをつけてしまいます。
「トキワ荘」が建て壊しになったときに、寺田ヒロオが解体の現場にかけつけず、隠遁するように暮らしていた茅ヶ崎で黙々と素振りをしていた、というエピソードなどは、「トキワ荘」の時代の終わりを告げる物悲しくも迫力のある一場面ではないでしょうか。
しかし、寺田ヒロオによって現在の文化が作られたという歴史は決して忘れてはいけないと思います。